2018年12月25日火曜日

Merry Christmas 2018


毎年、クリスマスの時期は願わくば雪が降って欲しい・・・と思ってしまいます。



12月の初めに、1週間研修でロンドンに滞在していました。
夜しかゆっくり街を見られなかったのですが、イルミネーションもお店の飾り付けも本当に華やかできれいでした。

それに比べると地味なレスターですが、クリスマスの頃はなんとなく空気が違うようにも感じます。多文化都市だからか、仕事関係でも”However you celebrate it or not(どのようにお祝いするにしても、しないにしても)”という配慮の枕言葉がついたあとに ”I wish you a happy Christmas season”といったメールが回ってきます。


雪が降りつもると、教会や古い建物がまるでタイムスリップしたように、伝統を感じさせる古く美しいイギリスの冬風景に変わります。

どこにいても、あのハラハラと雪が空から舞い降りてくる様子が大すきです。


2018年11月2日金曜日

レスター・シティーのBlueDay ①

 先日のレスター・シティーFCのオーナーをのせたヘリコプターの事故を悼んで、地元の小学校では、今日は「Blue Day(ブルー・デー)」だそうで、子供たちも先生もみんなレスター・シティーのユニフォームやブルーの色を身にまとって登校していました。

これに先立ち、おとといは事故のことやいろんな気持ちをクラスで共有し、それぞれが自分の気持ちをオーナーの息子さんあての手紙として書くという時間がとられたので、今日のブルーデーはしんみりしたものではなく、みんなでスポーツをして楽しく過ごす日となったようです。

子ども達がふだん注目しているのは選手達で、オーナーが誰かなんてほとんどの子どもが知らなかったでしょう。でも、学校としては、事故の映像やニュースをみた子ども達のグリーフケア(喪失にともなう複雑な情緒的状態のサポート)という意味もあっただろうし(だとしたら、誰に手紙を書くのかなどは子どもそれぞれに任せたほうがいいと思いますが・・・)、Royal Infirmary病院に子どもの病院を再生する支援をしてくれたことなど普段知らないビチャイさんの街自体への貢献も伝え、感謝をするということも教えたかったのかもしれません。


昨日の夕方、レスター・シティーのスタジアムに立ち寄りました。記帳をしてから、スタジアム前のたくさんの花や旗といっしょに添えられた手紙やメモの言葉を読んでいると、それぞれがいろんな想いをもって関わっていたことが伝わってきました・・・。

” LCFCとレスターの街自体をたすけてくれて、本当に本当にありがとう。安らかに眠ってください。愛を込めて。”

”レスターは、お祝いするときも喪に服すときもみんなで共に”

”ひとりの紳士からもうひとりの紳士へ”

”不可能だった夢を可能にしてくれてありがとう”

”最も偉大な日から最も暗い日へ。どん底の日にも奇跡を・・・”

                                               などなど・・・・明日の試合、みんな応援しています。

2018年10月31日水曜日

ハロウィン

今宵は、ハロウィンです。



ハロウィンとは、昔は、自然崇拝・多神教だったケルト人の秋の収穫を祝うお祭りが起源で、その日は1年に1度、あの世とこの世の間にある「門」が開いて祖先の霊が家族を訪ねてくるとも信じられていたようです。

今では形骸化してしまって、特にアメリカ経由でハロウィンが入って来た日本では、コスチュームイベントのようなイメージになってしまっているハロウィンです。でも、起源を知ると、なんだか日本の自然・祖先崇拝の文化に生まれた「お盆」みたいです・・・。

イギリスの子供たちもこのイベントが大好き。近所の友達とコスチューム着てみんなでゾロゾロと練り歩いてます。大人の方は、大興奮で走り回ったり、騒いだりする子供たちをしつけながら引率するのは大変だけれど、家にいて絶え間ない"Trick or Treat〜"のノックに対応するのも結構忙しいです。用意したお菓子が少なすぎ、あっという間になくなり電気を消して過ごしていたこときもありました・・・。

基本的にはパンプキンがおいてあったり、入り口に明かりがついていたりするお家をノックすることになっていますが、最近はうちの近所でも、「ハロウィンには参加しません(ノックしないでください)」の張り紙があるお家も多いです。でも、中にはラッピングしたお菓子の詰め合わせや手作りケーキまで用意してくださって、「さあ、一人一人よく顔をみせて。どれくらいこわいか脅かしてみせてちょうだい🎃」なんて、笑顔で子どもたちに対応してくださる高齢者の方とかもいらして、感謝で頭が下がります。

コミュニティーや世代間のつながりの温かさを感じます。

今年のハロウィンの夜は仕事です。
静かに過ごせすのかと思いきや、カウンセリングルームがシティーセンターに近いからか、遠くに、子どもというより若者たちの大騒ぎする声が聞こえてきます・・・👻。


2018年10月28日日曜日

湖から出る虹

日本の友人から昨日届いた「湖の中から出る虹」の写真です。
27日の朝にかかったそうです。

ポツポツとレイボーフラッグについて思うことを書いていた時に届いた偶然。

虹が大好きなのでうれしいです🌈




友人によると、湖の中から出る虹はとても珍しく、

「水の湧き出るところから虹が出る」

と言って、なんと

竜宮城の門が開く日」

と言われているそうです。そう、あの「Urashima Taro」がおとづれた竜宮城です。




乙姫さまは一体どこへおでかけなのでしょう・・・💗

その後のお話が楽しみです。



2018年10月27日土曜日

レインボーフラッグに思うこと③

(続きです。)

とはいえ、ポリティクスとはそう簡単にはいかないものなのでしょう。そのソーシャルサービスエージェンシーが同性カップルへの養子縁組を行うことはありませんでした。でも、州の法律に反して差別を行ったと騒がれることもありませんでした。

家庭が必要な子どもと子どもを育てたい愛情深い家庭をマッチングしてサポートしてゆく、という使命を同じくするNon-Catholicの養子縁組団体と提携する道を見出したのです。資金とスタッフをその団体に委ね、自分たちは直接同性カップルへの養子縁組をすることなく養子縁組プログラムを続けたのです。

提携先の団体にはそういった縛りはなかったので、同性カップルを対象から排除する必要はなかったでしょう。

結果として・・・・その提携により誰も傷つけることなく養子縁組の数は以前よりぐ〜んと増えたのです!その一連の流れをうけて、あるカソリックの司祭さんの
「神は不思議な形で働かれる」
というコメントが何かにのっていて、なるほど・・・と思った日本人の私の頭にはなぜか「一休聖人」が思い出されました。小さい時、アニメ「一休さん」大好きでした。





日本社会の文脈で身近にこのことについて考えるようになったきっかけは、大人になって何十年かぶりに再会した目黒の小学校時代の友達から、当時仲良しだったイシグロくんが高校生の時に亡くなったことを知った時かもしれません。

ごく普通の男の子のいでたちをしていたイシグロくんは、女の子とばかり遊んでいたのですが、そのことを不思議とも思わないほど私も毎日当然のように一緒に遊んでいました。たまに「おとこおんな〜」と茶々を入れる男子もいましたが、それも彼の特徴としてクラスのみんなが「そんなイシグロくん」として受け入れていたような気がします。

私が横浜の小学校に転校したあともイシグロくんは何度か遊びに来てくれて、二人で「りぼん」や「マーガレット」といった少女漫画を読みながらおしゃべりが尽きなかったのを覚えています。

イシグロくんは思春期になってだいぶ悩んでいたそうで、色々と周りから言われることも多くなり、高校の時に自ら命をたってしまう少し前に、小学校の時の私たちの担任だった先生に会いにいったそうです。「きっと、みんなで遊んでたあの頃が居心地よくて楽しかったんだと思う」と再会した友達が言った時、1年しかいなかったその学校がその後の横浜の学校よりも、9歳の帰国子女だった私にとっても、温かく居心地がよかったことが思い出されて、なんとも悲しくなりました。



全米で同性婚が合憲化される2015年までの16年間、同性婚を法的に認めた州は認めなかった州より、LGBTの若者の自殺率が14%も低かったというデータがあるようです。

日本はやはり空気でしょうか・・・。法ももちろん大きいですが「世間の空気」がどうであるか、というのは私たち日本人にとって影響が大きいのかもしれません。世間の空気が苦手で海外に出てくる人は多いですが、寂しくなってまた空気を求めるのも日本人なのかもしれません。

多様性との関係で興味深いところです。




2018年10月22日月曜日

レインボーフラッグに思うこと②

全米で同性婚が合憲化されたのは、オバマ政権下の2015年のこと。その時、レインボーカラーに照らしだされたホワイトハウスや抱き合って喜ぶ様々なカップルの姿をいろんな想いとともにイギリスのレスターで眺めていました。


「レインボー ホワイトハウス」の画像検索結果

アメリカに滞在していたのは、2000年から2006年のこと。性的マイノリティーの人たちが多数暮らすサンフランシスコ市にあって、全米にネットワークをもつカソリック系のNPO法人で働いていた私は、この同性婚の合法化へ向かう時代の波の中にあって貴重な経験をしました。

同性愛者が不当な扱いをうけるべきではないという認識は広まっていますが、カソリックでは同性婚は認められていません。現ローマ法王は、先の2代の法王と比べ、同性愛を指向する人たちへの謝罪や交流もする開かれた法王といわれていますが、法王庁が同性カップルの結婚を認めているわけではありません。

勤めていたソーシャルサービスエージェンシーは、カソリック系とはいえ、その資金は教会だけではなく公的資金にも援助されおり、例えば、私のお給料はその大部分がサンフランシスコ市から出ていて多様性に対応するための市のプログラムの一部でもありました

そんなカソリック系NPO法人で問題となったのは「Adoption(養子縁組)」のプログラム。アメリカで同性カップルも対象に養子縁組が行われていたことを受けて、ローマの法王庁より即刻同性カップルへの養子縁組をやめるようにというお達しがあったのです。差別を禁止する州の法律とローマとの葛藤に堪え兼ね、このチャリティーの養子縁組のプログラムは東海岸から次々へと閉鎖されました。レインボーフラッグ発祥の地であるサンフランシスコ支部は一体どうするのか、当時好奇の目も含めかなりの注目が集まっていました。

そんな中、当時そのNPO法人のトップだった人のスタッフに向けた話にはとてもこころを動かされるものがありました。随分昔のことで、私の記憶を辿って書くことなので当時の言葉そのままではないかもしれませんが・・・こんな主旨だったと記憶しています。
「自分の家族は三世代の間敬虔なカトリック教徒でした。そして息子はゲイであった。神は家族を愛せよとも言われる。私は息子がゲイであることを受け入れ、息子を愛している。ソーシャルサービスの組織として、愛情深い家庭を必要とする子供を愛情深い里親のもとにマッチングすることがAdoptionの使命ならば、その条件を満たすカップルを見つけ養子縁組をサポートしたら、それがたまたま同性愛者だったということではないのか。自分は今回のことについて大変悩んだが、サンフランシスコではこのまま養子縁組のプログラムを閉鎖することもなく同性愛カップルをその対象から排除しないことを決めた。」
スタッフから沸き起こった拍手。 そして一部司祭の小児性虐待のニュースやLGBTコミュニティーに対する抑圧などといった問題で、不安な思いをしていたカソリック信者やその他の人たちのために彼はこう続けたのです。
「ここサンフランシスコでは、同性愛者にたいする抑圧を払拭しようとするあまり、同性愛に対して懐疑的な人たちが疑問の声をあげることも許されないという風潮がある。そういった人たちをすぐにHomophobia(同性愛恐怖・嫌悪者)といって非難するのもまた、ひとつの抑圧ではないだろうか。すぐに受け入れることが難しい人たちもいることを理解してほしい。」
と。異なる2つのものを「我がこと」として悩み愛してきた彼が、こころ尽くして双方を護ろうとする言葉を、ソーシャルサービスのために集まったいろんなバックグラウンドをもつスタッフは聞き入っていました。キリスト教徒ではない日本人の私もその一人で、いろいろと考えさせられました。

対立や分断ではなく不思議な道が現れたのはそれからまもなくしてからのことでした。


この続きはまた今度・・・。



2018年9月10日月曜日

レインボーフラッグに思うこと①


地元レスターでは、9月1週目はLGBTQの尊厳を大切にする「パレード・ウィーク」でした。イギリスで初めて「プライド・パレード」が催されたのは、南東部の都市ブライトン(Brighton)だそうです。

この夏、海を見にブライトンを訪れた際、プライド・パレードを目前にロイヤル・パビリオンすぐ近くのブライトン美術館正面にはためいていたレインボーフラッグの写真です。


ブライトン

もともとは、サンフランシスコに発祥をもつLGBTの尊厳を象徴するレインボーフラッグ。LGBTQとは、レズビアン(女性同性愛者)、ゲイ(男性同性愛者)、バイセクシュアル(両性愛者)、トランスジェンダー(性別越境者、生まれた時の性別とは別の性として生きようとする人)、そして聞きなれないQは”Questioning"(自分の性のあり方がまだハッキリしていない)や”Queer'(性的マイノリティー全般)を表すそうです。

このQueer(クィア)という言葉は「性的マイノリティー全般」を表すことからさらに派生して、今では性的指向のみならずその社会の主流であるナラティブからはずれたマイノリティーとなる人種や文化などといったもの一般をもふくむ総称としても使われることがあるようです。

私がこの「レインボーフラッグ」にはじめてであったのも18年前に留学で訪れたサンフランシスコ。先生のお部屋の入り口にまずこのレインボーのシールが貼ってあったのですが、当時はそれが何を象徴するのかさえも知りませんでした。

かなりな割合で性的マイノリティーである人たちが暮らすサンフランシスコではSexTherapyの授業などでも、必ず男女だけではなくLGBTについても組み込まれていて、自らのセクシャリティーについてや自分とは違う人たちに対してどういった感情をもっているかなども探っていくことをしました。つまり、頭で理解するだけでなく現在どういった感情を自分との関係性の中でもっているかということを知っておくためです。

これは、自分がセラピストとしてむやみに誰でもカウンセリングして無意識にもクライアントさんを傷つけてしまうことのないよう、その時々のじぶんの臨床能力を知っておくためです。

いろいろ学び、いろんな人たちとふれあい、何も知らなかった私は6年にわたるアメリカ生活の中で一番信頼できるようになった友達はゲイでした。知的で優しく正義感も強い人で、職場でもいろいろと助けてもらい、マイノリティーとして言語バリアなどをかかえて仕事をする私にとても共感的な彼とはプライベートでも交流するようになりごく自然に友達になったのです。




ブライトンの海


2018年8月3日金曜日

大賀ハス


7月はじめに、日本の友人が「花の命が輝いている」と送ってくれました。
あまりに美しくてみとれてしまいました・・・。




きれいな水ではなく、泥水の中から生じて美しく清らかに咲くハス。
言語では伝えきれないものが伝わってきます。

デスクトップに保存して、今もたまに眺めています・・・。


2018年8月2日木曜日

SomaticExperiencingのワークショップ

アメリカからソマティック・エクスペリエンスシング(SE)のマギー・クライン(Maggie Klien)さんがロンドンを訪れるということで、3日間のワークショップに行ってきました。




ウンセリングには、対話による療法、箱庭・絵画といったイメージによる療法のほかに、身体感覚に働きかける療法があります。現在、トラウマ軽減のための身体心理療法が数多く開発されていますが、SEもそのひとつです。

アメリカのPeter Levine博士によって開発されたSEの理論背景にはかなり納得いくものがあります。こころの問題とだけされていたトラウマを神経系統に蓄積された余剰エネルギーの反応と捉え、その身体状態を通してトラウマを解放していこうとする治療法です。

余談ですが、SEを通して私の中である再会をしました。数年前にSEのIntroductoryコースを受けた時にPeter Levineの本、"Walking the Tiger: Healing Trauma"を読んだのですが、その本は邦訳もされていて、その訳者でSEを日本に紹介されたのが藤原千枝子さん。はじめはわからなかったのですが、大学院の時にサンフランシスコでインターン先が一緒だった”Chieko-San" でした。

大学院も別々で、インターンが一緒だったのは、ほんの数ヶ月だけのことだったような気がしますが、私は航空会社を辞め、彼女は新聞社を辞め、という話をした記憶が戻ってきました。30代独身で卒業後の経済プレッシャーにもさらされていた私は、Chiekoさんを理解して応援してくれるご主人が日本にいることを非常〜にうらやましく思ったことも(笑)

さて、話は戻り、マギーがもう10年ほど前に書いた子ども用にアートや遊びにSE理論を入れ込んだ本 "Trauma-proofing your kids" 、私も長い間本棚に持っていてたまに取り出しては取り入れています。なので、初めて会うマギーをなんとなく昔から知っていたような気持ちでいました。と、お茶タイムに彼女がよってきて、

「あなた、どこかで会ったことがあるように思うんだけれど。本当に初めて?私、あなたのこと知ってるように思うの」と。

う〜ん、そう言われても会ったことないです・・・。スクールサイコロジストでもあった彼女は、現在、SEの視点から学校システムの変革についての本を書いているのだとか。はい、それ必要だと思います・・・笑。学校は、子供たちだけでなく先生方もいろんな要求にさらされていて大変です。 

夢の中で会ってそんな話をしたのだろうか(?)

私は、子どものセラピーだけしているわけではありませんが、この日は「子どもとトラウマ」というキーワードをもとに、カウンセラー、学校の先生、小児科医といったいろんな仕事の人たちが集まっていました。

ワークショップ2日目、アメリカで子どもたちが銃の犠牲になる事件がおこり、心を痛めたマギーに「ここに集まっているみなさんは、子どもたちのGuardian(護り人)なので、一緒にしばらくその子たちのことを静かに胸に抱いてほしい」と語りかけられ目を閉じました。

どんなに怖かっただろう・・・朝元気に家をでた子どもが帰ってこなかった家族の気持ち・・・。そして、銃を使ってしまった人の中の子どももまた助けが必要だったのだと。

涙がでました。


2018年7月31日火曜日

小さな教会のシャガール

12枚の窓全部をロシア出身のフランスの画家マルク・シャガールが手がけたという小さな教会がイングランド・ケント州のTudelyという村にあります。






観光客がたくさん訪れる大きな教会の高い窓にではなく、素朴な教会の中の、本当に触れられるほどすぐそばにシャガールの窓はあります。






シャガールが大好きな私にとっては、夢のような空間・・・。

この地に住んでいた21歳のお嬢さんを海で亡くしたご両親の依頼によって、シャガールは東側に一枚のステンドグラスを手がけます。当初あまりこの仕事に乗り気ではなかったようですが、1967年にその一枚の窓の設置に訪れ、自然光の入るこの小さな教会に接して残りのすべての窓も手がけることにしたそうです。

祭壇のある東の窓は、海で亡くなったサラさんの死と再生がモチーフになっています。シナゴーグは、ロシアの昔の教会のようだと後日友達が教えてくれました。


All Saints' Church シャガールのステンドグラス


北側の物悲しい青い窓と対照的に、
南側には希望と再生を思わせる黄色の窓があります。







見過ごしてしまいそうな、素朴で小さな教会(All Saints' Church) は、
訪れた時に「他に誰もいない」なんていうひと時があったほど静かな礼拝所。


柔らかな優しさに囲まれて、教会をでてくるころには
「悲しみ」は「哀しみ」に変わってくるような感覚が・・・。


パリ・オペラ座の天井画なども手がけた20世紀を代表する画家であるシャガールは、イングランドのこの小さな教会のすべての窓が完成した1985年に、自身は98歳でこの世を旅立っています。


2018年6月11日月曜日

リバプール④ 夕日そして港町


リバプール初日、到着してすぐに訪れたアルバートドックの夕日です。本当に美して・・・満たされました。

リバプールの夕日


そして、最終日に訪れた昼間のアルバートドック。

なんとなく、横浜みなとみらいやサンフランシスコのウォーターフロントとイメージが重なります。横浜は育ててくれた街、サウンフランシスコは意志の力で向かった街。そんな縁のある場所をイギリスの中でひとつのものとして感じたのは初めての経験です。


アルバートドック

いまでは美術館や博物館やレストランに囲まれた世界遺産の一部であるアルバート・ドックですが、古くは大英帝国の繁栄をマンチェスターの産業革命とともに支えたイギリス最大の奴隷貿易港でした。

アフリカから人間を奴隷として連れてきて、新大陸アメリカへ・・・。当時は、奴隷商の看板があちこちに立ち並ぶほど誰も疑問に思わない「当たり前」のビジネスだったことは驚きです。でも、今も身体的のみならず精神的暴力による人間同士の所有関係はもっと巧妙に形を変えて存在しつづけているのかもしれません・・・。

そんな歴史文脈に生まれたジョン・ニュートン(John Newton)という人は、奴隷船の船長として暮らしたのち、勉強して牧師となり奴隷貿易へ関わった悔恨と神の恩寵を讃え、有名なアメイジング・グレース(Amazing Grace) を作詞し、奴隷貿易に反対したりしたとか。

あの凜とした美しい歌の生まれた背景に一人の人間の大きな精神的転機と行動力があったことをはじめて知りました。そして、その転機への第一歩は、「難破しそうになった船の中」で訪れたようです。

そして、彼は、英国で奴隷貿易の禁止が決まった年にまるで使命を終えたかのようにこの世を去っています。

自分は人生の荒波の中で難破しそうだよ・・・なんて思われている方々も希望を失うことなかれです(笑)





テート美術館から眺めたリバプール美術館の”Imagine Peace"の文字。





2018年6月4日月曜日

リバプール③ テート美術館ー見えないものを探求するー


アルバートドックは世界遺産の一部だそうですが、周囲には博物館や美術館がいくつもあります。イギリスの良いところは、博物館や美術館の入館料がいらないところです。

テート・リバプール美術館を訪れると”Exploring the unseen(見えないものを探求する)”という展覧会が催されていました。ウォーターフロントにあるすてきなたたずまいの美術館でした。



私の足が止まったのは英国の画家ターナー(Joseph Mallord William Turner) の「吹雪、港の沖合の蒸気船」の前です・・・。

うねるような吹雪のなかのまるで塊のような蒸気船と言われていますが、私には、ぼんやりとはっきりしないの絵の真ん中の空間に現れてきている光だけがリアルにせまって感じられました。

有名な絵なので、教科書か何かで見たことがあったのですが、その中の光はあまり印象がなかったのです・・・。

本物の絵の持つ力でしょうか。

この絵はどういう意味だろう・・・とあれこれ考え始め、絵の隣の説明書きに目をやると

「この絵は、理解されるために描いたのではないのです」

という一文が目に飛び込んできて、びっくり。

失礼いたしました・・・。そうでした、相変わらず頭でっかちな私。

偶然ですが、この「吹雪、港の沖合の蒸気船」の絵から浮かんだイメージ、ユングの「リバプールの夢」の暗くて煤けたはっきりしない中に現れてくる光の源そのものであるマグノリアの木のヴィジョンのイメージと重なります。真ん中の空間にポッカリと現れている光が・・・。

今回の旅のシンクロニシティー(共時性)です。

2018年6月3日日曜日

リバプール② ユングが夢で訪れた街


ビートルズが演奏していたことで有名なCavern Club(キャヴァーン・クラブ)などのライブハウスやパブがある中心街のMathew Street(マシューストリート)ですが、そこにスイスの精神科医・心理学者であるCG.Jung(カール・グスタフ・ユング)の小さな銅像があります。


The bust of Jung in Liverpool
と言っても、ユングは実際にリバプールを訪れたわけではなく、夢の中でヴィジョンとして"Liverpool(リバプール)"を訪れていたのです。そのヴィジョンの内容から、この辺りのことだろう・・・と思われるMathewStreetの小さな広場付近に建てられたようです。

この夢に関しては、彼の自伝的な本”Memories,Dream, Reflections"に書かれています。
“This is the dream I mentioned earlier.  I found myself in a dirty, sooty city.  It was night, and winter, and dark, and raining.  I was in Liverpool."私は、汚い、すすけた街にいた。冬の暗い夜そして雨が降っていた。私はリバプールにいたのだ。
と、夢の報告は始まります。
Mathew Street
そして、雨と霧と煙ですべてがぼんやりしていて薄暗いあるスクエアで、小さな島が陽の光で輝いているのを観ます。ユングはその島に立つ一本のマグノリアの木に惹きつけられます。その木は、陽の光の中に立っており、光の源そのものだったのです。 

不快なリバプールの天候をぼやき、そのマグノリアの木が目に入っていないのが明らかな同郷のスイス人たち一行が、そのリバプールに住んでいるという一人のスイス人に驚きを示すものの、ユングは、
I thought ”I know very well why he has settled here” and I woke up. 私は、なぜ彼(リバプールに住んでいるスイス人)がここに居を構えることにしたのかがよくわかると思い、そして目覚めたのだ。
 と夢は終わります。

夢の中のリバプールの薄暗い情景はこのころのユングの心情を表していたそうです(その頃、ユングはサイエンスの中で何かを成し遂げたいとこころに願っていたという説もあるそうです)が、そんな中にこの世のものとは思えないほど美しいヴィジョンをみたことにより生きていけるのだと。
Liverpool is the ‘pool of life’.  The ‘liver’ according to an old view, is the seat of life – that which ‘makes to live’.” リバプールとは、’命のたまり’である。Liver(肝臓)とは、古くは「命の座」命を生かすものと捉えられていた。
という自らの夢についてのユングのコメントが小さな銅像と一緒に刻まれていました。

ところで’pool of life'って、どういう和訳が適切なんでしょう。やはり、集合無意識のユングですから、1つの命の中のつながりを持った命のイメージがありますが・・・。


マシュー・ストリートにあるキャヴァーンクラブ

そういえば、リバプール初日の朝、

「僕、寝ながら起きてた〜。それで、朝だうれしいって!」

と息子。???と思いながらも、息子は日本語がとみに苦手なので、あまり注意も払ってなかったのですが、小さな集合無意識?である家族の小さい人からの言葉で始まった不思議です。

2018年6月1日金曜日

リバプール① 開いていたStrawberry Fieldsへの門


ジョン・レノンに名曲 " Strawberry Fields Forever "をかくインスピレーションを与えたという場所を訪ねました。

ストロベリー・フィールズとは、こころの力を護る場所・・・。


開いていたストロベリー・フィールズへの門

ジョン・レノンが幼少期に暮らしたミミ伯母さんの家は、他のメンバーと比べると比較的立派な家だったそうです。

でも、ジョンの家族生活は決して恵まれたものではありません。海に出て帰ってこない父親。そんな父親と離婚して他の男性との生活を始めた母親からも幼くして別れ、ジョンは叔母さんに引き取られて暮らしています。

ジョンが10代の頃には、ミミ叔母さんの夫であり父親がわりだったジョージ叔父さんが旅立ってしまいます。母親を慕って近所にあった母の家で異父妹たちと過ごしたりするものの、その母もジョンの暮らす叔母さんの家の前で車にひかれて亡くなってしまいます。

普通に考えると、かなりトラウマティックな幼少期です。

過酷な現実とは、時に人から夢や希望を奪いさってしまうことがあります。これが「現実に打ちのめされた状況」というものー。

次々と起こった大切な人たちとの葛藤や別離の中、このストロベリー・フィールズ(苺の原っぱ)の静かな役割に深い力を感じます。

当時、ストロベリー・フィールズの中には、Salvation Armyによる女子孤児院があり、近所に住んでいたジョンは友達と一日中その自然の中を駆け回ったり、木に登ったり、空想に浸ったりしていたそうです。

静かで平和で子どもたちが安心して自由に身体を動かして遊べる場所であるストロベリー・フィールズの役割、それは現実からこころの力を護ることではなかったかと。その後もここはジョン・レノンの中では特別な位置を占めていたようです。

なんと、すてきなセラピスト。

ふと、普段は閉まっているストロベリー・フィールズへ続く「苺色の門」がこの日は開いていたことに気がつきました・・・。



Let me take you down, cos I'm going to Strawberry Fields
一緒にストロベリーフィールズへ行こうよ

Nothing is real and nothing to get hung about
何も実在しない、何も心配することもない、自由なんだ

Strawberry Fields forever
ストロベリーフィールズ、永遠に

(和訳 by YK) 









2018年5月23日水曜日

タイガーマムのこころ



子どもの行動療法を専門に市の職員として家庭訪問をしているパキスタン系2世の友達がため息をつくのです。

ある小学校からリファーされてきた家族の家庭訪問をしたところ、

中国系移民1世の親が、イギリスの小学校職員から「もっと子どもを愛するように。あなたは勉強しろとばかり娘に厳しく、一緒に遊んだり、ハグをすることもないと聞きます。あなたはお子さんを愛していない。」と言われたと泣き崩れたというのです。

「何をもって、私たちが娘を愛してないなんて言えるのか」と。

パキスタン系移民の第一世代を親にもつ彼女は、その親がどれだけイギリス社会で苦労しているか知っているので、言葉がなかったと。労働市場には、言語問題のみならず、人種などによる差別は、悲しいかなやはり存在しています。階級制というのでしょうか、住み分けというのでしょうか、移民が労働力不足のところをまかなってくれる分にはいいいけれど、そうでないところではかかってくる無意識のブロックは強くなります。

中国人夫婦は、その子が何倍も努力しなくてはいけないこと、何かに卓越することを早くから教えたかったのかもしれません。そして、ハグという愛情表現は彼らの文化にはあまりなじみのないものだったのかもしれません。

子どもがひどい精神的打撃を受けているようであれればトラウマの世代間伝播などタイガー・マムに問題がないわけではありません。ただ、受け入れ社会(ここではイギリス社会)での苦労が生んだタイガー・マムであるかもしれないのです。

悲しいのは、その子はイギリスのメイン文化を基準に親を「自分を愛していない親」として見てしまうことです。が、コントロールされて自分を失っていく状況を「愛」だと思い込むことも危険ではあるのですが・・・。

世代間での分裂ではなく、緩やかな個人化と文化融合を進めていくには、メイン文化の多様性を包摂してゆくという環境は重要だと感じます。個人レベルでは、親もイギリスメイン文化を取り入れながらも自国の文化も大切に、自分たちの経験談やそこから学んだことを話してあげることは悪くはないのではないのでしょうか。

そして、あまり心配せず、子どもはみんなちゃんと「すべきこと」をもって生まれてきていることを信じることでしょうか。

とはいえ、日系移民1世の私としては、難しいことも日々感じます・・・。


2018年5月22日火曜日

専業主婦?それぞれの生き方でいいのでは・・・


日本ではよく女性の社会進出が遅れているということが取りざたされますが、女性の社会進出が世界一進んでいると思われているアメリカでのこと・・・。

職場で、結婚直後に

「子どもが生まれたらしばらく子育てに専念したい・・・」と私がいうと、

「あ、産後3ヶ月はゆっくりしてね。その間はなんとかするわ。隣に子どもの保育所があるから一緒に来て一緒に帰ればいいわ」とボス。

とりあえず、隣の保育所を見に行ったりしました。(※ のちにその保育所の奥のお庭で大麻が栽培されていたことがニュースになりびっくり・・・)でも、私の「子育てに専念」のイメージや希望はそんな数カ月のことではなかったのです・・・。

そんな職場に、ある日「アメリカのコミュニティー活動や社会福祉活動を見て回る」ということを目的に、日本の優秀な国立大学から女性の学生さんがみえました。将来、国連で女性の人権問題の仕事につきたい旨大学の先生に伝えると、「では、アメリカのソーシャルサービスの活動を見たり、ボランティアをしてくるなりのことをしておいで。」と言われて回っていたのです。

面白かったのは、コミュニティーセンターのActivity CoordinatorだったGailとその子の会話。Gailは、Vernetaが亡くなってから新しく来た白人のスタッフで、私は、いつも本音トークの彼女ともすぐ仲良くなりました。

その女学生さんが帰ってセンターを閉め終わったGailは、2階にすっ飛んで来て

「ちょっと、あの子ったらなんで国連を目指そうかと思ったのか聞いたら、母親が専業主婦ばかりの中で苦労して仕事をしている姿を見て、日本は女性の人権が無視されていると感じたのが発端なんですって。今も専業主婦ばかりだってぼやくのよ。それって本当?」と。

「う〜〜ん、そうかなあ」というと、

「なんでそれをぼやかなくっちゃいけないの?全くわからない。選べるんだったら、私も専業主婦がいい。それが認められているなんて、いい国じゃない!Yumikoも、そんないい国を捨てて、なんでこんなところでこんなストレスフルな仕事してるの?」と。

Gailはそもそもは美大を出て絵を描いていたのです。ご主人は、バンド活動をしていていました。ただ、それでは暮らしていけないし、お互い年金システムの支払いもしないといけない・・・ということで、Gailはコミュニティーセンターで、ご主人は楽器屋さんでフルタイムの仕事をしていたのです。子どもは大好きだったけれど、フルタイムの仕事の上、絵を描いたり音楽をしたりする時間はいるし、経済的に子どもに責任が持てない・・・と子どもは諦めたのだとか・・・。

Gailにとって、「大好きな子どもを育てながら絵を描く時間がある。それでいて、女性も仕事を持つべきなんていうプレッシャーを受けない社会なんて!」という新鮮な発見だったらしいです。

もちろん、分業だってそんなに単純なものでもなく、人はそれぞれの生き方の中で喜びも大変なこともあると思うのですが、面白い反応だなあっと思いました。仕事ってなんだろう?と考えた時、私たち日本人は、お金をもらって働くことだけが働くことではないという文化に育っているのでしょう。

女性も外で仕事をしなくっちゃいけない」というのも「女性は家の中にいて家族の世話をしなくてはならない」というのと同じく一つの縛りなのかもしれません。

現在の資本主義社会で男性と同じように生きるのが当然であるとすることは、心の中の男性性と女性性のバランスを崩しがちになる・・・と言っておられる人もいます。ここでいう男性性・女性性とは一人の人の中にある性質です。

生き方が多様化する中、その社会のよしとする声との関係性の中でどうやって自分のこころとの折り合いをつけて自分らしく生きていけるのかも複雑になってきてきます。

そういえば、Gailはいつも「女性」の絵を描きつづけていました。「自分でもどうして女性ばかり描いているのかわからないけれど・・・」と言いながら。サンフランシスコで開催された地元アーティストの展覧会でGailの絵が賞をもらい、彼女の描いた「女性」を観にいったのはそれからしばらくしてのことでした。



2018年5月20日日曜日

ロイヤル・ウェディング

今朝買い物に行くと、ハリー王子とメーガンさんの結婚式が各新聞の一面に並んでいました。

イギリス王室の伝統にはない、離婚歴のある年上女性で、アフリカ系アメリカ人の母親を持つ者との結婚という側面でも注目されていますが、メーガンさん生き生きしたチャーミングな女性です。

厳粛な英国国教会・美しい賛美歌という王室文化の中、お二人がアメリカのシカゴから呼んだという黒人のカリー主教さんの「Power of Love (愛の力)!」のお説教とゴスペルによる「スタンドバイ・ミー」の融合・・・文化の変遷を感じました。
「私たちは愛の力を発見しなくてはならない。その時、私たちは古い世界を新しい世界にすることができるでしょう。」 
「愛が道であるならば、私たちは剣や盾を川辺におき、戦争をやめるでしょう。」 
「愛が道であるならば、神の子供たちである全ての人に十分に良い部屋が行き渡るでしょう。なぜなら、私たちは互いを大切に、そう本当の家族のように扱うからです。」
カリー主教は、同性結婚の擁護者でもあり、社会正義と移民などについてもオープンで率直な意見を表明しているそうですが、なんとも情熱的で楽しいお説教でした。

そんなカリー主教の姿とメーガンさんのお母さんの姿をロイヤル・ウェディングに見ながら、私の中では、思い出す事があります。

アメリカ時代に勤めていたソーシャルサービスエージェンシー。元々長い間地元に住んで白人層が少数、大多数がアフリカン・アメリカンという地区に徐々にいろんなアジア系移民が多く増えていった時期でした。まさに多文化地区にある高齢者関連のコミュニティーセンターには、大きなキング牧師の絵がかかっていました。

2階が私の仕事場だったのですが、私は、1階にあるコミュニティーセンターのActivity CoordinatorだったVernitaというアフリカン・アメリカンのスタッフととても仲が良かったのです。朝早かった仕事場で、二人とも朝が弱く、やっとの事で時間通りにたどり着くといつも近くのカフェまで交代で「モカ」を買いに行ったものです。こころが優しく、明るく、心に障壁なく人を受け入れる彼女は、私の一番のCoworkerだったのです。悲しかったことには腎臓の病気で早くに他界してしまいました。

私は初めてアフリカ系アメリカ人のひとたちが集う教会のお葬式に参列しました。主教さんはさまざまなな声のトーンでとても情熱的に身振り手振りを交えて、Vernitaの人生や天使が彼女を迎えにきた瞬間までを物語調に聖書の言葉とともに語られ、そして、ゴスペル音楽との融合・・・。

まるでオペラのようなお葬式に圧倒され引き込まれました。

ソーシャルワーカーであるというメーガンさんのお母さんがお勤めのL.A.のエージェンシーのサイトを思わず見てしまいました。私が勤めていたところとそっくりで、ふと懐かしくなり、久々にVernitaと彼女の文化のことを思い出していました。

メーガンさんの持っていたブーケは、ハリー王子が朝摘んできたお花で、その中に故・ダイアナ妃の好きだったわすれな草も入っていたとか。さて、二人は大きな文化の違いを超えて愛を貫けるのか・・・!「違いが大きければ大きいほど大変ではあるけれど、得るものもまた大きい」のが夫婦の不思議です。

2018年5月18日金曜日

子どものセラピー

よく「子どもはまだシステム(家族や学校といった)の中にいるので子どものカウンセリングはしない」とか「親のカウンセリングをすると子どもの問題は解決する」とかいう臨床家がいます。

もちろん、そういった側面ながないとはいいません。

でも、子どもの表現に接していると因果関係だけでは語れないその子をとりまくものとの絆を感じ、その創造力には時を超えてその子が深くもっている可能性を感じる時があります。

子ども側からすると、そのアートや遊戯を通したプロセスから、無意識にも新たなストーリーへの土台を深く感じて安心するといった感覚に近いかもしれません。



子どものセラピーは、どういった形にするのか、また可能なのか、そしてタイミングも一件一件違うのです。ほとんどは、その子が教えてくれます・・・。

子どものセラピーのみで終結する場合もありますし、家族セラピーのようなものに発展するときもあります。

今、レスター市内の小学校で学校カウンセリングをしていますが、クライアントさんの中には、かなり大変なところを生きてきたという子どももいます。子どもは、自分の状態を過去のシステムとの関係性から表して見せてくれることがあり、胸がつぶれそうになるような時も正直あります・・・。

そんな時には、フィンガーペイントにどっぷりつけて、紙の上を滑らしている指の感覚に注意を向けたりしながら・・・。「冷たい、でもスムーズで柔らかい・・・ぼくのこころだ」と、お告げのような言葉を聴く時があります。やさしい自然な笑顔が顔を覗かせます。




そんなゆっくりしたプロセスから現れてくるものがあるのです。

文字通り?Hope(ホープ)がHope(希望)として、私の中でその子への深い尊敬と連帯感のようなものとなって、こころにアートのようにおさまっていく感覚。

感動とは何かを動かすのです。




2018年5月15日火曜日

スペシャルな空間


イギリス、ものすごいお天気続きです。
滅多にないことなので、みんな気分も明るく解放的になっているように感じます。

イギリス暮らしももう11年。正直、もっと早くに日本に帰っておいた方が良かったのではないかと思ったりしない時もありません。英語で何の基盤もないところで仕事していく大変さ、夫以外頼れる家族のいない中での子育て・・・日本にいれば違ったのではないかなんてことがふと頭をよぎることもあります。それは、海外経験が私より少ないのに、長々と海外生活をすることになった夫も同じかもしれません。

カウンセリングを学びに出かけたアメリカからレスターに移住して息子が生まれた後、大学院の恩師であるジョン・ブランド先生をサンフランシスコに尋ねました。私が学生だった当時、窓のない入り口にあるとても小さなお部屋にいらしたのですが、私はそこを訪れるのはいつもとてもスペシャルな気がしていました。

久しぶりに尋ねた時にはブランド先生は、教授になって奥の見晴らしの良い明るい広いお部屋にいらっしゃいました。私が部屋のことをいうと、「ああ、そうそう。いいでしょう、この部屋は誰にも渡さないよ」と茶目っ気たっぷりに笑って見せるのですが、先生の元教え子に対しての深いさりげない優しさは昔のままでした。

話の途中で学科長がドアを叩き、「ジョン、ミーティングだから早く来るように」とせかされました。慌てて立ち上がろうとする私を制して、「大したことではない、気にするな」と苦笑しながら手を横にふって話を続けてくださいました。

そして、息子が生まれた記念にと「URASHIMA TARO」の英語版絵本を下さって「日本には素晴らしい知恵が物語として伝えられているね」と。「日本に帰らずに、西洋諸国で子供を育てることにしたのなら日本文化をその子に伝えることはあなたの責務となってきますよ。」と言われました。わざわざジャパンセンターの本屋さんまで買いに行って待ってて下さったことを知って胸があつくなり・・・。




イギリスのガーデンのカレンダーを手渡すと「イギリスらしい」と喜んで下さってから、

「あなたが今住んでいるレスターとはどんなところですか?」

と聞かれたので、

「日本とサンフランシスコの間のように感じるところです。」

と答えると、深い眼差しでしばらく間があってから、'Very interesting...'とひとこと。

スペシャルな臨床家というのは、何というのでしょう・・・ほんのわずかなやりとりでも、ものすごく深く理解されている気にさせるのです。その場の空間が別次元とでもいうのでしょうか。ブランド先生に質問され、知らぬ間に語っていたこころの風景、私の方はだいぶ時差があって・・・数年後に自分の言葉の意味に気がつきました。

あの「空間」を思い出していると、・・・私の中の様々な迷いは消え去りました。やはり、私にとってはスペシャルな師です。

Merry Christmas 2018

毎年、クリスマスの時期は願わくば雪が降って欲しい・・・と思ってしまいます。 12月の初めに、1週間研修でロンドンに滞在していました。 夜しかゆっくり街を見られなかったのですが、イルミネーションもお店の飾り付けも本当に華やかできれいでした。 それに比...